私がもともと『源氏物語』が好きで、今年の大河ドラマを欠かさず見て、
この前京都に行ったときは、
大河ドラマ『光る君へ』全国巡回展in京都 に行ったというのはブログにも載せた。
光源氏のお構いなしの女好きさと平安時代のハチャメチャ恋愛事情が面白く『源氏物語』は読み比べなどしていたものの、
紫式部と同時代に随筆『枕草子』を残した清少納言にはあまり興味はなかった。
『源氏物語』がエロ小説、
(いやだってそうでしょう。光源氏はちょっとカワイイ子がいたらすぐに夜這いをしてモノにするし、人の女房であろうと、やや幼めな子であろうとお構いなしなんだから!)
に対して、
『枕草子』は古文の教科書を思い出して、まじめに読まねばいけないようなイメージがあった。

中学生?高校生?の私には残念ながらあまり響かなかったこの出だし。
(ホント、いま思うとその頃のわたしって残念⤵)
これを理解するには情景を思い浮かべる想像力と感性が必要だったのだろう。
しかし、ぼさーっと授業を受けていた私には、そんな心の余裕はなく、
ただただ暗唱せねばならない、といった義務感だけに駆られていた。
しかし人生の辛酸舐めて歳を重ねたいまならわかるよ。
春は、寒さも緩むにつれだんだん夜が明ける時間が早くなって、
山を見ると朝焼けの中に細い雲がたなびいているのを見ると、ほっこりするだろう。
夏は月も星もよく見えて、空を見上げるのはいい季節。
月がなくて闇夜でも蛍が飛んで素敵💛だって。
庭に蛍が来て飛んでいたら、そりゃ風流で暑さも忘れそう。
秋はカラスが寝床に帰るところを切り取って、そんな様子を少しもの悲しいと言っている。
また夜になって虫の音が聞こえてくると「あー、夏から秋に季節が変わったなあ」と感じさせる。
冬は雪。
「つとめて」とは、漢字にすると「夙めて」となり「夙に」は「ずっと前から」「早くから」「早朝から」という意味がある。
(ホント、高校生の時にこれぐらい勉強しとけよ!)
だから、「冬は早朝」となる。
冬の朝に雪が積もっていたら言わなくてもわかる。キレイで素敵。
寒い朝に火鉢に火を起こして、昼になって少し暖かくなってくると火鉢に白い灰がたまって、それはいただけないと書いてある。
これが有名な『枕草子』の最初の一節なのだが、
『枕草子』が完成したのは、長保三年(1001年)と言われている。
今から1000年前。
でも、今読んでも、ここに書かれた光景は日本の四季そのもので、ほとんど変わっていない。
日の出の時間が早くなって、だんだん春が、しかもゆっくりとやってくるワクワク感。
カーテンの隙間からチラッと朝焼けが見えたりしたら「やっとこれで気温も上がりそう」なんて感じる。
月のない夏の夜、庭に蛍がやって来て...なんてお家はなかなかないかもしれないが、
月夜は良いね。思わず拝みたくなる。
月がなくても蛍が飛んだらそれはまた素敵。その素敵な感じはわかる。
秋は春と反対で、だんだん日暮れも早くなるし、カラスが「カーカー」言いながら山に帰るし。
私も早く帰ろかな、なんてちょっと寂しくなる。
(でも食べ物は美味しい)
冬の朝、深夜のうちに薄く積もった雪があたりの景色を覆っていたらテンション上がる。
夜に「明日は雪かな?」なんて考えて寝ると、いつもより少し早く起きて、雪の降り具合を確かめてみたりする。
冬の描写の中に、火を起こして持っていくとあるが、小さな頃、おばあちゃんと一緒に住んでいたお家には立派な火鉢があった。
ちゃんと炭に火を起こして、その上に網を置いてお餅を焼いたりしていた。
その炭が焼け終わってしまうと、白く無様に、いかにも”残骸”という感じで残る。
清少納言はその様子も
火桶の火も、白き灰がちになりて、わろし
と言っている。
「わろし」はあまり良い感じではない、ということ。
わかる。
すごいぞ『枕草子』!
すごいぞ、清少納言!
このように『枕草子』にいたく感動した私は、
今まで通しで最初から最後まで読んでいなかったので、日本に帰ったときにこのような本を買ってきた。

訳者の酒井順子さんという方が、
すごくわかりやすく現代的な表現で書いてくれている。
大河ドラマのおかげで登場人物も具体的にイメージ出来て、入ってきやすい。
1000年前と今と、なにも変わらない、清少納言のセンスが光る日々の描写がたくさんあるので、また紹介したい。

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この前京都に行ったときは、
大河ドラマ『光る君へ』全国巡回展in京都 に行ったというのはブログにも載せた。
光源氏のお構いなしの女好きさと平安時代のハチャメチャ恋愛事情が面白く『源氏物語』は読み比べなどしていたものの、
紫式部と同時代に随筆『枕草子』を残した清少納言にはあまり興味はなかった。
『源氏物語』がエロ小説、
(いやだってそうでしょう。光源氏はちょっとカワイイ子がいたらすぐに夜這いをしてモノにするし、人の女房であろうと、やや幼めな子であろうとお構いなしなんだから!)
に対して、
『枕草子』は古文の教科書を思い出して、まじめに読まねばいけないようなイメージがあった。
春は、あけぼの。やうやうしろくなりゆく山ぎは、すこし明かりて、紫だちたる雲の、細くたなびきたる。
夏は、夜。月のころはさらなり。闇もなほ、蛍の多く飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くも、をかし。雨など降るも、をかし。
秋は、夕暮。夕日のさして、山の端いと近うなりたるに、烏の寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど、飛びいそぐさへあはれなり。まいて、雁などのつらねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。日入りはてて、風の音、虫の音など、はた、言ふべきにあらず。
冬は、つとめて。雪の降りたるは、言ふべきにもあらず。霜のいと白きも。またさらでも、いと寒きに、火など急ぎおこして、炭持てわたるも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火も、白き灰がちになりて、わろし。

中学生?高校生?の私には残念ながらあまり響かなかったこの出だし。
(ホント、いま思うとその頃のわたしって残念⤵)
これを理解するには情景を思い浮かべる想像力と感性が必要だったのだろう。
しかし、ぼさーっと授業を受けていた私には、そんな心の余裕はなく、
ただただ暗唱せねばならない、といった義務感だけに駆られていた。
しかし人生の辛酸舐めて歳を重ねたいまならわかるよ。
春は、寒さも緩むにつれだんだん夜が明ける時間が早くなって、
山を見ると朝焼けの中に細い雲がたなびいているのを見ると、ほっこりするだろう。
夏は月も星もよく見えて、空を見上げるのはいい季節。
月がなくて闇夜でも蛍が飛んで素敵💛だって。
庭に蛍が来て飛んでいたら、そりゃ風流で暑さも忘れそう。
秋はカラスが寝床に帰るところを切り取って、そんな様子を少しもの悲しいと言っている。
また夜になって虫の音が聞こえてくると「あー、夏から秋に季節が変わったなあ」と感じさせる。
冬は雪。
「つとめて」とは、漢字にすると「夙めて」となり「夙に」は「ずっと前から」「早くから」「早朝から」という意味がある。
(ホント、高校生の時にこれぐらい勉強しとけよ!)
だから、「冬は早朝」となる。
冬の朝に雪が積もっていたら言わなくてもわかる。キレイで素敵。
寒い朝に火鉢に火を起こして、昼になって少し暖かくなってくると火鉢に白い灰がたまって、それはいただけないと書いてある。
これが有名な『枕草子』の最初の一節なのだが、
『枕草子』が完成したのは、長保三年(1001年)と言われている。
今から1000年前。
でも、今読んでも、ここに書かれた光景は日本の四季そのもので、ほとんど変わっていない。
日の出の時間が早くなって、だんだん春が、しかもゆっくりとやってくるワクワク感。
カーテンの隙間からチラッと朝焼けが見えたりしたら「やっとこれで気温も上がりそう」なんて感じる。
月のない夏の夜、庭に蛍がやって来て...なんてお家はなかなかないかもしれないが、
月夜は良いね。思わず拝みたくなる。
月がなくても蛍が飛んだらそれはまた素敵。その素敵な感じはわかる。
秋は春と反対で、だんだん日暮れも早くなるし、カラスが「カーカー」言いながら山に帰るし。
私も早く帰ろかな、なんてちょっと寂しくなる。
(でも食べ物は美味しい)
冬の朝、深夜のうちに薄く積もった雪があたりの景色を覆っていたらテンション上がる。
夜に「明日は雪かな?」なんて考えて寝ると、いつもより少し早く起きて、雪の降り具合を確かめてみたりする。
冬の描写の中に、火を起こして持っていくとあるが、小さな頃、おばあちゃんと一緒に住んでいたお家には立派な火鉢があった。
ちゃんと炭に火を起こして、その上に網を置いてお餅を焼いたりしていた。
その炭が焼け終わってしまうと、白く無様に、いかにも”残骸”という感じで残る。
清少納言はその様子も
火桶の火も、白き灰がちになりて、わろし
と言っている。
「わろし」はあまり良い感じではない、ということ。
わかる。
すごいぞ『枕草子』!
すごいぞ、清少納言!
このように『枕草子』にいたく感動した私は、
今まで通しで最初から最後まで読んでいなかったので、日本に帰ったときにこのような本を買ってきた。

訳者の酒井順子さんという方が、
すごくわかりやすく現代的な表現で書いてくれている。
大河ドラマのおかげで登場人物も具体的にイメージ出来て、入ってきやすい。
1000年前と今と、なにも変わらない、清少納言のセンスが光る日々の描写がたくさんあるので、また紹介したい。
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